プレス紹介:親の背中 of リマインド

親の背中 高校生の意識調査の意味するもの

親の背中その眼差しの「輝き」に一瞬目を奪われた。所属するクラブで友好行事として中国遼寧省の高校生を招いて弁論大会を催した時のことである。

 ご存知のように遼寧省は中国の東北部、我が国と同じような緯度に位置し貧しい地域ではあるが、かつての日本のように、教育熱心な地域であると側聞していた。弁論大会に出席した3人の女子高生は、中国でも有数の難関校と言われる中国育才高校の生徒で、日本に憧れ、日本語を学んでいる。幾度の弁論大会を勝ち抜き、上位3人が1週間の旅程で、日本に招聘され、交流会を開くことが、クラブの国際交流行事の一コマとして恒例になっている。参加者は、クラブがお世話をしている交換留学生、派遣予定の日本の高校生、その父兄、クラブのメンバー等である。

 先の一コマは、この3人の日本語による弁論が行われた時の様子である。テーマは「信念と成功」であった。余りの流暢な日本語に、日本生活に慣れ、その後に日本語での体験報告を予定されていた来日学生は、少しばかりおじけづいてしまっている。クラブのメンバーたちは戦後の間もない頃の高校生活を想いだし、「日本もかつては・・・」と複雑な物想いに耽っているように見受けられた。

 いずれにしても、矜恃(きょうじ)に満ちた3人の中国高校生から、私たちが見失いかけている、勉学に取り組む、基本的な精神、そして何よりもその高校生の眼差しの先にある夢や、それを実現する強い意志を、感じずにはいられなかった。
「眼は口程にモノを云う」は私たちの社会において、コミュニケーションの主要なプロセスになっているが、いい意味で「眼の輝き」のもつ意味を痛感させられた。心なしか、同席していた日本の高校生の眼はやさしい反面何かに迷っているようにも思えた。

 会場の中の誰かがつぶやいた、「子は親の背中を見て育つ」と。親も混迷している。日本の高校生も、親であるクラブのメンバーも、見失いかけている何かに共感していたことは間違いない。可能性は残されている。ゆとり教育と称し、教える側の論理が優先されているような今のしくみに、教育の陥穽(かんせい)はないか。貧しいことと豊さは反対語ではない。貧しさの反対語は卑しさである。貧しくともかつての日本文化のように、比類のない豊かさを実現することもできる。教育は国創りの基本である。もっともっと、教えられる側の身になって、子供たちの可能(可能性ではない)を抽(ぬ)き出し、育てるよりも自らが育つ、教育の場づくりが必要である。予備校や塾の存在が、これを物語っている。

 折から、財団法人「日本青少年研究所」が米国、中国、韓国、日本4ヶ国の高校生の意識調査を行った結果が発表された。Y新聞は「少年遊びやすく学成り難し!?」とその結果を皮肉った。研究所は「あれもこれもやりたい」と意欲的な他国に比べ、趣味や友人関係、学業、社会的全般にわたって、日本の高校生には「希望が少ない」ことが特徴だと言及した。教育の場がそうさせているのか、学生の本分である学業に対する意識は、4ヶ国中最低の23.4%。反面、ファッションやショッピングなどの「流行」が40.2%、「携帯電話やメール」が50.3%と、学業外のことで、他国を上回ったことも象徴的である。また、自分の将来について、「あまり良くない」「だめだろう」が米中を大きく上回ったことも見逃せない。更に周囲の眼を気にし「友人関係がうまくいく」ということを最も強く希望しているが、それでも、その意識度は他国を下回っていた。

 今の日本社会を深刻ととらえるかどうかは、高校生の意識調査の結果の背景にある「親の背中」を真剣に考えるかどうかと関わっている。高校生が大人が作り出した今の社会や学校のしくみに居場所を見出せず、自分(自らの分野、)も他人も信頼できずにさ迷っている。多くの子供達が、逼塞(ひっそく)した暗がりの中にいる。昨年末の少年犯罪はここに起因している。

 大人の論理を棄て、老いも若きも人間共通の生きるという原点に立って、社会のしくみを再生し、明るく自由に、青少年を受け入れてゆく場づくりが必要である。

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