プレス紹介:耐震偽装問題 of リマインド

「耐震偽装問題」真の責任者は

「耐震偽装問題」真の責任者は耐震強度を偽装したマンションデベ・ヒューザーは、ヒューマニズムとユーザー本位の住まいづくりを標榜していたらしいが、とんだ人間主義もあったものである。確かに参考人招致での小嶋社長の答弁ぶりは、同社がどういう言動的パワーと人間臭さで成長してきたかを伺うには、十分な人間性がでていた。

 しかも同社のマンションを購入した人々は、強度を偽った細い梁(はり)を見て、他社よりも部屋が広いと錯覚したらしい。見せかけのヒューマニズムもここまでやれば、素人はイチコロである。

 私などは、一昨年、この偽装問題と同じ所管官庁の監督下にある道路公団総裁の藤井某が立場こそ違っても、同じような言動的パワーで答弁していたシーンを昨日のように思い出してしまった。その後副総裁が逮捕されたが、談合問題や肝腎な道路公団改革は、改革どころか、相変わらず年度末の予算消化のための駆け込み工事は後を断たず、道路料金は、ハイウエーカードの偽装問題に端を発し、割引率やサービスはむしろ改悪されたまま闇の中に葬られてしまった。

 何が、そうさせているのか。郵政改革法案の原案は英文だったというような論点を指摘するつもりはない。一言でいえば、戦後60年経った今も、米国主導、この国の法律も行政も、各々が所管している人々のために存在し、主権者、国民のためにあるという認識が欠如している点にある。

 耐震偽装事件も構造的には、道路公団の談合事件と同類で、県内にある十数社の民間確認検査機関の役員の多くは、元公務員で、確認行政に携わったプロによって占められているのが実態である。

 天下り先を増やし、公務員を減らしの隠れ蓑として利用されている悪しき政治の典型的モデルが、ここにもある。

 誤解している人も多いが、建築確認申請は、本来許可ではなく、性善説のような申請確認行為である。法には「道府県や市の責任・監督下で建築主事を置き、法への適合性をチェックする」ためにあると記されている。多分、立法時には、もしこの法を犯したときに、これ程の人々の生命・財産を脅かすという認識が誰にもなかったのではないだろうか。

 ゆえに罰則は極めて甘い。しかし、ことは起ってしまった。本当の責任はどこにあるのか。

 もちろん、姉歯建築士、木村建設、ヒューザー等、参考人招致された人々の性悪さと法的責任は重い。だが、90%の真の責任は、国および、この法制度の陥穽(かんせい)を見逃した司法当局にあるといいたい。

 こともあろうに、本来、公僕である建築主事が果たすべき責任を、国が指定した民間の検査機関に任せたというところに重大な司法当局の過失があり、これを立法化する際に、当局が機能すべきだった。過失は、これ程、住民の生死に関わる判定を、営利を目的とする民間機関に任せる法を作ってしまったというところにある。

 極論すれば裁判所の仕事を営利目的の民間企業に任せてしまったようなものなのである。更に天下りという、官主体の目眩(くら)まし論理が立法化に拍車をかけ、過失の重さを見失ってしまったといえるのではないか。

 建築確認申請の審査業務は、法に照らし合わせても民間委託してはならない公務なのである。

司法の問題といえば、同じ末路をたどらないためにいっておくが、先の銀行の不良債権処理に国民の血税を投入したことも、相手が銀行という民間企業故に、大いなる法律違反である。欧米であればあり得ない。今、銀行は、この恩恵を受けて空前の利益を出している。

 多くの銀行の月末窓口には顧客無視の長蛇の列が日常的になっている。利益は誰によってもたらされ、何のためにあるかという認識が、未だに欠如している証である。

 同様、我が国の官の仕事には、国民主体という認識が著しく欠けている。

 金融界も天下りが多い。皮肉めくが、今銀行は住宅ローンに依って、多くの利益を生みだしていることと、先の法を犯してまで救済された銀行なればこそ、今回の偽装問題の被害を蒙(こうむ)った人々のために、兆単位の利益の中から120億程度の浄財を、ヒューマニズムにあふれた、真のヒューザーとして出資してもいいと思うのだが、いかがだろうか。

リマインドサイトへ戻る